非公式プロフィール

イチハラ指揮者
新潟県上越市出身。横浜市在住。16歳。

幼少期

新潟県上越市で過ごす。家の裏には山があり、山菜や虫が取り放題。少し歩けば水平線まで田んぼの風景や、すすきの野原といった自然に囲まれ、一番近いコンビニエンスストア(24時間営業ではない)まで徒歩30分という環境で育つ。電車に乗って遊びに行く(そもそも遊びに行くところなどない)などおよそ考えも及ばないことであり、自然の中で遊ぶか、テレビゲームをするかのどちらかであった。

イチハラ指揮者と横浜ベイスターズ(大洋ホエールズ)

 父親の転勤で横浜に引っ越してきたイチハラ指揮者は、転校先の小学校で野球観戦に誘われる。地下鉄に揺られ、横浜市営地下鉄関内駅から地上に出て右を向くと見える横浜スタジアムの大きさに圧倒された。人生で初めて横浜スタジアムに行き、生で野球を観た記念すべき日であった。(ナイターだったことは間違いないが、対戦カードや日付、勝敗は覚えていない)

 新潟にいた頃は毎日ゴールデンタイムに放送されていた巨人戦でしかプロ野球を知らなかった。当然、巨人以外の球団を知ることもなく、読売巨人軍こそが唯一の正義であると思っていたイチハラ指揮者であったが、生で観る野球、そして応援の楽しさに心を奪われ、すぐに熱烈な大洋ホエールズファンとなった。(反動でアンチ巨人になる)

 翌年より友の会にも入会し、外野席に足を運び応援を続けていた。余談だが、売り子さんから買った発泡スチロールのカップで飲むコーラがとても美味しかったのを今でも鮮明に覚えている。
 しかし、全ての野球ファンが知っている通り、大洋ホエールズは弱かった。とにかく弱かった。救いようがないくらい弱かった。それでも野球は楽しかった。喜んで、落胆して、たまに野次って、周囲の知らないファンと話して。外野席は庶民のエンターテインメントだった。

 安針塚に二軍の寮や球場があることを知り、足を運んだりしていた。二軍球場で色々な選手にサインを貰った。
 恐ろしいもので、当時のプロ野球選手名鑑には選手の住所が掲載されていた。(本当におおらかな時代だったと思う)その住所を頼りに、サインを貰おうと友人と連れ立って長内のマンションまで行った(なぜ長内だったのだろうか。行ける距離だったのかもしれない)ものの、インターホンを鳴らせず、何をするでもなく帰って来たのを覚えている。今の常識で考えるとアウトな話であるが、ここにプロ野球選手が住んでいるんだと思うとなんだか感動したものだ。

 1993年、球団が横浜ベイスターズに改称となる。当初は新名称やマスコットのホッシー(初期型のホッシーはアゴについている紐を自分で引っ張ってまばたきをしていたのを誰か覚えているだろうか。今にして思えば不要なギミックである)などに違和感を覚えたものの、応援する気持ちに変わりはなかった。その際、イチハラ指揮者が最も驚いたのは応援歌の近代化で、それまで軍歌のような球団歌(今でも好きだ)や、単調(だが耳に残り、歌いやすい)だった選手個人の応援歌が一新され、90年代を象徴するようないわゆる若々しい曲にすげ替えられたのであった。それは、昭和の球団が平成の球団になったことを十分に印象づける大きな変革であった。
 新球団となるにあたり開催された、ファンの集いにも参加をした。私設応援団が、新しい球団になっても応援しよう、マナーを守って応援をしようといったことを熱弁していた(「ビヘイビア!」とか言っていた)のを覚えている。確か、「ルパン」と呼ばれている名物の応援団員がいたのだが、そのルパンが代表して演説をしていた。この頃、ベイスターズの応援団としてラッパを吹くのが一つの夢でもあった。
 新球団お披露目の公式イベントにも当然参加した。ここでイチハラ指揮者はなんと、とても巨大な新球団旗を複数人で持ってバックスクリーンからフィールドに入場するという大役を担ったのである。(経緯は忘れたが、母親が応募して当選したのだった気がする)
 その後、ファン感謝デーでグラウンドで選手と何かするイベント(何だったかは思い出せない)にも当選し、生まれて初めて超至近距離でプロ野球選手と触れ合うという幸運に恵まれたのだが、その時なんと、佐々木、谷繁、石井琢など、その後優勝することになるメンバーが勢揃いして、自分の間近にいたのだ。緊張しすぎて何も話せなかったのは言うまでもない。選手は全員身体が異常に大きく、特に佐々木は同じ人間とは思えなかった。友利があるワードですごくいじられていたのをよく覚えている。(当然、至近距離にいる人間にしかその声は聞こえていないし、その内容はここには書けない)

 1997年、当時ヤクルトの石井一久に食らったノーヒットノーランを外野席で見ている。今日は全然応援が盛り上がらないななどと思っていて、気づいたらノーヒットノーランを食らっていた。
 満塁ホームランも何本か見ている。
 満塁男、駒田はもちろんのこと、一番記憶に残っているのは青山道夫の代打満塁ホームランだ。
 まだ選手の成績や来歴がよく分かってない頃だったので、この印象があまりに強く、青山というのは強打者なのだという記憶だけが残り続けていたのだが、これを書く時にふと生涯成績を見てみると、とんでもない間違いだったことが分かって衝撃を受けた。でも私にとって青山といえば満塁ホームランを打つ偉大な打者だ。

 そんな風にファンを続けていくうち、大矢政権の頃から、あれよあれよと勝てる球団になっていった。
 そして、誰もが知るように、横浜ベイスターズは権藤監督の下、1998年に38年ぶりのリーグ優勝、そして日本一に輝くだが、イチハラ指揮者はその瞬間を横浜スタジアムのパブリックビューイングで迎えた。確か前日から球場の外で並んだのだったか。出来れば生で試合を観たかったが、甲子園では当時のイチハラ指揮者には土台無理というもの。しかし、詰めかけた大勢のファンと共に優勝の瞬間を迎えることが出来たのは人生でも指折りの最高の体験であった。マウンドでジャンプをして抱き合う佐々木と谷繁をリアルタイムで目撃したのであった。
当然、翌日のスポーツ新聞は全て購入し、今でも実家に眠っている。
 もちろん、関内大通りで行われた優勝パレードにも行った。道の左右に立ち並ぶビルから祝福の紙吹雪が舞っていた。あれは各企業が自主的にやっていたのだろうか。あんな光景はもはやあり得ないだろう。

 その後、ベイスターズはしばらくAクラスに入るのだが、優勝メンバーの後釜が育たなかったことや、FAで移籍、MLBへの挑戦などから、徐々に輝きを失っていった。
 そして新たな暗黒時代、悪夢のTBS時代を迎えることになるのだが、実を言うと、牛島政権の2年間、ほとんど野球観戦から離れていた。生でも中継でも。どうしてだかははっきり覚えていないが、1998年のベイスターズが瓦解していくのを見ていられなかったのかもしれない。別に牛島監督が嫌いだったわけではない。だから、大ちゃんス打線から第二次大矢政権まで、ぽっかり空いている。

 10年間で8回最下位という、恐らく今後更新されることがないであろう暗黒時代も、TBSがDeNAに身売りしたことで終焉を迎える。
 当時のDeNAはガチャゲーで儲けてCMをこれでもかと打っていた企業であり、はっきり言って(私にとって)イメージは非常に悪かった。ナベツネが「モガベー」などと揶揄したのも分かる。DeNAの手腕に期待したファンは果たしてどれくらいいたのだろう。
 だが、蓋を開けてみれば、球団は生まれ変わった。野球が変わったかは別として、ファンサービスを始めとする球団のあり方が横浜ベイスターズに改称したときのごとく、近代化された。フロントの考え方の全てがフレッシュだった。第二次横浜革命といっていいだろう。
 例えば、それまで横浜スタジアムのトイレは汚かった。が、DeNAはそういったところから徹底的に整備した。古臭い慣習を取り払い、風通しをよくした。ベイスターズは横浜のものという立ち位置を明確にした。球場を買い取るなんてよくやったものだ。そうやって、市民に愛される球団にあっという間に変貌させた。これは素直にすごいことだと思っている。
 その結果、昔の空気を知るファンの割合が圧倒的に減ったのもまた事実。球場には若者が増え、野球のことをよく分かっていないようなファンも増えた。それが悪いこととは言わない。ファンの観戦マナーは良くなって、ネガティブなことを好まない空気になった。(それこそ昔は、負けた瞬間に大量の応援バットが外野に投げ入れられたものだ)
 だが、人気が出すぎたおかげで、長年のファンといえどもチケットが取れなくなった。昔はシーズンが盛り上がっている最中の巨人戦でもない限り、ふらっと足を運べば当日券で入れたのだ。
 DeNAになった当初はファンクラブに入っていたが、入っていてもチケットが取れないので、2年ほどで退会した。

 今では年に3~4回、チケットが取れれば球場に見に行き、あとはテレビ中継やネット速報での観戦が主になっている。
 球場ではコーラを買うのが精一杯で、応援バットなどそうそう買えなかったあの頃から考えると、今ではビールでもたこ焼きでもみかん氷でも何でも買える。大人になったのだなあとしみじみと思う。
 以前は外野席で大騒ぎするのが常であったが、今はバックネット方面の内野席で静かに野球を楽しみながら観戦するスタイルになった。応援歌に合わせて手を叩いたり、応援歌を歌ったりするのは、ここ一番という場面で球場全体が一体になる時くらいだ。

 色々あるだろうが、これからも私が横浜ベイスターズを応援し続けることに変わりはない。
 生きているうちにもう一度優勝する瞬間を見ることが出来ればいいなと思っている。優勝が38年周期だとすると、次は2036年。まだまだ先だ。少なくともそれまでは生きよう。

以下執筆中。